テレビ映画

 先回と同じような話しになるが、大晦日に黒澤明監督の「七人の侍」と「椿三十郎」を鑑賞した。
 何度も観ている映画なのに、初めてみる時のように引き込まれてしまった。
 先回観た時から時間が経っているからなのかもしれないが、そんなことより優れた作品だからなのだと思う。

 話しの筋が分かっているのに何度観ても飽きないというところは、歌舞伎や能に似ていると言える。
 落語もそうだが、これらに言えるのは、まずストーリーが優れているということ、それと、見るたびに新しい発見があるということがあると思う。
 それはいままで見えなかったものが見えてくるということ、事実、今回気が付いたら筋だけでなく掛軸や襖に書かれている絵柄、それに木目などにも目が向いていた。

 「こういうことではないか」という発見もある。
 黒澤映画に共通することとして、画面の明るさを抑えているところがあると思う。
 谷崎潤一郎氏の「陰翳礼賛」に、「周囲を明るくしたのでは色が引き立たない。第一飯にしてからが、ぴかぴか光る黒塗りの飯櫃に入れられて、暗い所に置かれている方が、見ても美しく、食欲をも刺激する。あの、炊きたての真っ白な飯が、ぱっと蓋を取った下から煖かそうな湯気を吐きながら黒い器に盛り上がって、一と粒一と粒真珠のようにかがやいているのを見る時、日本人なら誰しも米の飯の有難さを感じるであろう」とあるが、監督はこのような基調を守っているのではないだろうか。

 もし、明るいカラーだったらどうだろう。
 「椿三十郎」の最後で壮絶なシーンがあるが、カラーだったらびっくりしてしまい、何度も見たい場面にはならないかもしれない。
 「七人の侍」をベースにして作られた「荒野の七人」がどこか違うのは、こんなところにもあるのだと思う。 
 どこまでその発見ができるか、そんな挑戦に何度も観る理由があるのかもしれない。
 「黒澤監督は、見えないところであっても、納得した本物の小道具を使う」ということを聞いたことがあるが、これも目の肥えたリピーターのための布石なのだと思う。 

 で、二つの作品を比較すると「七人の侍」は「張り詰めた尊い緊張」と言えるのに対し、「椿三十郎」の方は「おだやかな緊張とユーモア」と言えるのではないか。
 二つとも良い意味での「おせっかい」(助太刀)の物語であるが、「椿三十郎」について思ったことを少し取り上げてみたい。

 終わりに近い場面で、一同が揃うが、椿三十郎がいないので「連れてくるように」と睦田婦人に言われ若者たちが出て行く。
 そして「あの男は戻ってきやしないよ」「こんなところに引き止められるのは迷惑、おとなしくお城つとめができる人ではない」と城代家老の睦田が言うシーンになる。
 ここで本来この物語は終わりである。

 九人の若者が追いつくが、城代家老が言ったように椿三十郎は去っていく。
 この映画を観た方はその場面が浮んでくると思うが、でもこの数分間は「馬から落ちて落馬する」の「落馬」に相当するのではないだろうか。
 余計なのである。

 しかし、黒澤監督のこと、何かあるに違いないと考え思い当ったのが「馬」である。
 九人の若者が出て行く前、伊藤雄之助氏演ずる城代家老が「私が馬に乗るのを見た人が『乗った人より馬は丸顔』と言ってたよ」と話し、皆が笑いをこらえるシーンがあった。
 「なぜここでこんな話が」と思っていたが、これが「落馬」に繋がるのだろう。
 監督恐れ入りました。  

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